貴ノ花は大関相撲を取りましたね.身体も大きくなり,本格力士への道を着実に歩んでいますが,両耳が変形していることに気づいたことがありますか. 特に右耳が大きく腫れています.これを「耳が沸く」私たちの間では言います. 形からカリフラワーとも. 内出血で血がたまり,腫れるわけで貴ノ花のように右が腫れている人は右四つであることを示します. 頭からぶちかまし,食い下がる相撲を取るうちに,耳は沸きます.安芸ノ島,旭道山,若ノ花ら激しい取り口の小兵力士に共通するものです.
私も入門後,一年たたないうちに両耳が沸きました.師匠に「お前は体は小さいが,耳を見たら力士だと分かる」と言われ,なぜかうれしかった思い出があります.80キロ前後の体格でした.そう言った親方(伊勢ノ海)の右耳も沸いていました. 現役時代,今牛若丸と言われた元関脇藤ノ川の名残です.
沸いている最中は,ぶよぶよと軟らかく,指が触れただけで頭全体がしびれるくらいいたいものです. 毎晩,寝る時にカイロで温めながら固めて,完全に固くなると痛みはやっと治まります. 変形した耳は一生元に戻りません.でも力士たち,そして私の勲章なのです.「沸いた耳こそ稽古のあかし」・・・ですね.
若ノ花は気迫あふれる相撲を取っています.小さな体で健闘しています. でも場所前の軽量で7キロも減ったとか.とにかく小兵力士にとってどう体重を増やすかが問題です.
若ノ花は入門当時,真ん丸顔でふっくらしていた印象があります. それが,体つきも顔つきも変わるほど一時やせました. 黙っていても太る体質と,食べても大きくならない体質があり,若ノ花は後者なのでしょう. 松ヶ根親方(元大関若島津)や霧島関(現在陸奥親方)らは細い体を大きくするため,食べるのも「一つの稽古」という気持ちだったと聞きました。
私も小さくて,体を大きくしようと食べたものですが,自分より食べない仲間がはるかに大きな体をしているのを悔しい思いで見たものです. 夏は食事時間が苦痛だったこともありました.私の場合,結局大きくなれませんでした.
廃業した維新力が「寝て起きたら,ボアーンと体が大きくなる夢を見た」と真顔で何度も話してくれたことがあります. 「君は手足が大きいから,必ず大きくなる」と励まされ,プロテイン飲料を飲んだりもしていましたが,維新力も大きくなれませんでした.
若ノ花は少しずつでも大きくなっています.ただ大きくなる夢を一度でも見ているはずです.
伊勢ノ海部屋は,同志社大学と先代から深いつながりがあります.昭和55年当時の大学生王者だった服部(後の藤ノ川)ともよく稽古しました.
しかし,既に幕内級の強さと言われた服部にわが部屋の力士は誰も勝てません.もっぱら一門の井筒,鏡山の力士が大学時代の服部と稽古しました.その中に幕下時代の霧島がいました.一度十両を経験した後,幕下に落ちていたころですが,それでも若手実力者に変わりません.ところが,服部に全く歯が立ちません.「自分に自信がなくなった」と霧島は二日間だけで同大から東京に帰ってしまいました.「悔しかった.情けなかった」と霧島はガックリしていました.
そして昭和58年,服部が鳴り物入りで入門.霧島は「あいつだけには負けたくない」と言い続け,服部に稽古を挑み続けました.後に同大の監督が「あの悔しさがあったから霧島は大関になれた」と話したことがありますが,同感です.
現在の同大の主将・山本選手(*)はアマのトップクラスで,ウチの部屋の幕下衆はとにかくライバル意識をもっています.武蔵川部屋も大物・武双山の入門が叩き上げ力士たちのいい刺激になっているとか.切磋琢磨は身近な者たちのしのぎ合い.二子山部屋も同様でしょう.
(*)現在の土佐ノ海
「翔馬」.北海道出身の北勝鬨が「久我」の本名で取っていた幕下のころ「出世したら付けたい」と自らが考えていたシコ名候補です.
本名で取っている力士は,シコ名に対して淡いあこがれを持っているのです.私も長く本名の「浅坂」で取っていましたが,入門十年目に,札幌育ちらしいシコ名ということで,自分で考えた「雪光山(せっこうざん)」を師匠の許しを得てつけました.
「どうも,冬だけ強そうなシコ名だなあ」と親方には言われましたが,土俵で呼ばれ,番付,取組表を見ると改めて力士としての実感が沸いたものです.
伊勢ノ海部屋は江戸時代からの伝統のある相撲部屋です.師匠自身は新十両の時,先代から「藤ノ川」と「当り矢」の由緒あるシコ名の選択を言われ,前者を選びました.ウチの部屋はさらに埋もれている伝統のシコ名をよみがえらせ若手力士たちにつけています.何も分からない弟子が由来を聞きに来る時,古い番付や相撲錦絵を見せ説明します.たとえば「荒馬」は「15代目である」.「大綱」は「雷山と何度も対戦している」.「荒海」は「大関になった」など・・・.
新弟子たちは驚くとともに気持ちを新たにしています.シコ名に誇りを持つことは,力士としての自覚,責任感を持つことにつながるのです.
小錦−貴ノ花の一戦が取り直しになりました.物言いの協議が行われ,判定を待つ時の力士の気持ちは様々です.俵の外の蛇の目の砂をはいたり,手をついてしまった時は本人が一番よく分かるもの.
ところが,もつれてひっくり返った場合は思わず軍配を見ます。自分に分が悪い時は「取り直しになってほしい」と思うわけですが,呼び出しさんが「大丈夫,こっちが勝っている」と声をかけてくれば場合は「もう取りたくない」の心境.いろいろ揺れます.
有利なところをもう一丁(取り直し)となると「負けられない」と逆に緊張してしまう場合もあります.協議中は「やっぱり心配になって審判の親方衆に目が行く.身振り手振りを見て何を話しているのか気になる」とはある幕内力士の声です.好一番が取り直しになった時,館内は沸きます.しかし,それまで,さまざまな思いが行き交います.自分の全力を尽くした一番だからです.
この日は結びの一番が曙−小錦戦.その前は武蔵丸が貴ノ花に挑戦しました.こんな日は外国人力士の台頭を改めて感じます.
そして思い出すのが,西サモア出身の南海龍です.5年前,酒で失敗,廃業しましたが,もし精進を続け,今の土俵にいたなら,大関以上を望めた器でした.入門当時は80kg台だった体がどんどん大きくなり,相撲ぶりに迫力が加わって,関取の仲間入りを果たしました.
夏の札幌巡業トーナメントで当時の大関・大乃国関を土俵外に一発で吹っ飛ばしたのにはびっくりしました.夏巡業は暑い毎日が続くうえ長丁場.移動の疲れもあり,それぞれ体調に配慮しながら取り組みに臨みます.
「いつも通りやっただけよ」と南海龍は言っていましたが,ほかの関取衆が無理しなかった分,余計パワーが目立ちました.炎天下の野天巡業では皆がグッタリしていた中ただ一人,ムシャムシャ,アイスクリームにかぶりつくなど,胃袋が日本人とは全く違うという感じでした.
体形で言えば武蔵丸が近い感じ.今28歳.「相撲だけに精進していれば」とつくづく思います.曙、武蔵丸との対戦も見たかったものです.
(注) 南海龍太郎(高砂部屋)・・・西サモアの怪人.筋肉質で足腰もよくすばらしい体の持ち主.初土俵から3年足らずで関取に昇進.十両も3場所で突破して入幕した.酒好きがたたり,昭和63年初場所14日目から欠場,そのまま廃業した.